charming records

ストリップファンが、ときどき本をつくります。

広島第一劇場の楽日

*ストリップ劇場というゾーニングされた場所での出来事を、個人が特定できるかたちで、ご本人の許諾なしにインターネットで書くことはできないと考えています。当日、その場に行きたくても行けなかった方がいらっしゃることを思うとやりきれないですし、求められている情報はこういうものではないかもしれませんが、ここではレポートの形式ではなく、ごく私的な記録に留めます。
伝えられることはほんのわずかですが、この記事が広島第一劇場を愛するひとに少しでもプラスになれば嬉しいです。

広島第一劇場の閉館日に関する報道

(インターネットで読めるもの、有料も含む)※敬称略

「また一つ灯が消えた」ストリップの老舗・広島第一劇場、最後の一日 【ルポ】踊り子、常連客、経営者は何を思ったか(47NEWS/共同通信=松田優、坂野一郎)

女性客も魅了したストリップ 女性記者が見た広島第一劇場最後の日 | 毎日新聞毎日新聞/小山美砂)

壁一面のキスマーク また一つ消えた昭和のたたずまい:朝日新聞デジタル朝日新聞/岡田将平)

 

ほんとうは最後のことばかりをとりたてて記憶したくない、自分が少しだけ居合わせられた広島第一劇場の熱くて間延びした日常こそおぼえておきたいけど、この場所だから最後に起こったと思える出来事を、自分の目に映った範囲で書いておく。


2021年5月20日、広島第一劇場の楽日はお祭りだった。

雨の中、開場を待つ列は隣の駐車場を超えて長く延びていた。わたしは開場30分前に着いたのだけど、場内は満席で立ち見スペースに入ることになった。

いつだったか、平日の開演時刻に合わせて行ったときはお客さんが4人しかいなかったっけか。その日は時間が余って、踊り子さんがお客さんひとりずつに声をかけ、みんなで話す時間もあった。夜になったら仕事帰りの常連さんたちがなだれこみ、連れ立ってはしゃいでいるのを踊り子さんが面白がってポラロイドに撮っていた。

今日は開演を待っているあいだにも、ひとがひっきりなしに流れ込んでくる。常連さんが入り口で戸惑っているお客さんを奥へ誘導する。折りたたみ椅子をいくつか持ち込んでいた方が、うまく場所をつくって設置し、初ストリップらしきお客さんや女性に声をかけていた。ありがたいことにわたしも座らせてもらう。きっとこの場所に通いつめてきたり、ストリップに並々ならぬ思い入れがあるんだろう。今日この場所で過ごせる時間を痛切に大切に思っているはずなのに、だからこそ、こうやってひとのために動けるんだろうか。

ロビーに出ると、機材を抱えたマスコミ関係者が何人もいた。場内で携帯を取り出すこともできない劇場でカメラをいくつも目にするのは、反射的にギョッとする。ストリップ劇場は外から区切られた秘密の空間だから、マスメディアがいくつも入ってくるのはなんだか妙な気分で落ち着かない。

ピリピリしてもおかしくない異様なムードにもかかわらず、スタッフさんはいつも通りに見えた。連日の混雑で疲労もピークに達しているはずなのに。外出券をチラッと見せる一瞬でさえ、顔なじみではないはずのわたしに冗談を言っていた。そう、広島第一劇場へ行くたのしみのひとつが、スタッフさんのほのぼのしたおしゃべりだった。

 

9人の踊り子さんたちのステージは、変わらず素晴らしかった。

閉館興行のための演目を用意していた方や、ステージ中に感情がこぼれ出ていた方もいたのだけれど、最後だから、じゃなくて、踊り子さんはいつだって、特別なときじゃなくても、観るひとにとって特別になりうるような、一回きりのステージを踊り続けているのだとあらためて思い知った。偶然集まったこのときこの場所だけのひとたちに向けて踊っているのは、どんな日でもなにも変わらなかった。

 

1回目の公演が終わっても、帰るひとの姿はまばらだ。

関東の劇場で、踊り子さんの引退週にふらっと入ってきた初ストリップのお客さんを見かけたことが何度かあるのだけど、場内はぎゅうぎゅう詰め、いつまでも写真の順番待ちの列が途切れない異様な状況に驚いて、長居せずに帰ってしまう方ばかりだった。自分だったらなんとなく申し訳なくなりそうだ。

ふと腕時計を確認すると、いつのまにか夜になっている。明日も平日だし、さすがに遅い時間になればひとが減ってくるだろう、と知り合いのお客さんも話していたのだけれど、そうでもなかった。「せっかくだから最後までいようか」の声も聞こえてきた。


涙を流しているひと、心底たのしそうに笑っているひと、真剣な面持ちのひと。最後方で腕を大きく掲げて手拍子する、きっと常連さん。席で寝落ちるスト客。いちゃつきはじめるカップル。食い入るようにステージに集中する、たぶん初ストリップのお客さん。謎のタイミングでよくわからない叫び声をあげるひと。オープンショーでチップを渡すために列をなすひとたち。ローカルルールや動線がわからず翻弄されるメディア関係者もいれば、お客さんの邪魔にならないようにうまく撮影する記者も。投光室を見上げれば、何人も詰めている。雑多。ぐっちゃぐちゃ。いつものストリップ劇場の人間模様の、密度と濃度がぐっと上がって、さらに煮詰まったような。清濁あわせ呑んで悲喜こもごも。あたたかく整った理想的な大団円だったとは思わない。劇場の方々や踊り子さんたちが望んだような状況だったかはわからないけれど(切にそうであってほしかったけど)、やれやれと苦笑いする自分と、ウヒョーこれぞストリップ劇場よと軽率にはしゃぎたくなる自分とが交互に揺れ動いていた。楽前はボロ泣きしてしまったのに、一転して今日はめちゃくちゃに楽しい。今日で終わってしまうなんてとうてい信じられない。わたしも熱狂の渦の中で浮かされているひとりだった。


ああ、これは地元のお祭りみたいだ。
伝統を受け継ぎ、信仰を踏まえて、この日のために協力して時間をかけて準備してきたひとたち。
通りすがりになんだか賑やかだから物見遊山に近寄ってきたひと。その空気に乗じて騒ぐひと。
なにがなんだかわからないまま流され巻き込まれるほかないよそもの。
死者も人間ではないなにかもやってきているかもしれない。
そういえば、かつて祭りは乱交の場だったとか。


広島第一劇場は、地にしっかと根づいた祝祭の場だったんじゃないか。
ケの日もハレの日も毎日開いていて、日常のすぐそばに非日常がある場所。その非日常の連続が日常になる場所。

ステージの合間、いったん劇場から出て涼やかな空気を吸って、少し離れたところからそのネオンを眺めているとき、キャンプファイヤーや松明の炎のことを思い出していた。

スマホを劇場の看板に向けて、ビデオ通話しているグループがいる。きっと、来られなかった仲間に、なんとかできる限り楽日の様子を見せていたんだと思う。スマホのまわりで笑い声が何度も湧いた。

いつも次週予告が掲示されているスペースに、今週もポスターがあった。「広島第一劇場をありがとう これからもストリップをよろしく!」。地元のお客さんや劇場関係者にとって、ここがストリップのすべて、ストリップはここしかないひとは少なくないはずなのに。自分たちの場所がなくなるとき、こういう言葉が出てくるひとたちの場所がなくなってしまう。


 

思い出にさせないでほしい。劇場は今しかない瞬間の美しさを見せてくれる場所なんだから、過去になんかなってほしくない。ずっとずっといつまでも今でいてよ。失われることに美しさなんて見出したくない。



こんなに素晴らしい場所をつくりあげて続けてきた、劇場のみなさん、踊り子さん、そして広島の常連さん、広島第一劇場を大好きにさせてくれた方々に感謝しています。